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福岡クリエーター 人物列伝

小島与一(博多人形師)

約800年も前から素焼きの人形を愛でる習慣があったとされている博多。黒田長政が入国したころには職人たちによって現在の素地が作られ、江戸時代後期には名工たちの登場により全国にその存在が知られるようになったのが「博多人形」の始まりだ。現在も多くの作家たちが活躍するなかで、長い歴史を通して最高峰の職人であり唯一無二だという評価を受け続けているのが、明治から昭和にかけて活躍した博多人形師、小島与一である。

1886(明治19)年に福岡市で生まれた小島は小学校卒業後に南画家・上田鉄耕に師事し、その後博多人形師・白水六三郎に入門する。後に「名人与一」と呼ばれるようになり、数々の名作を発表することになるが、後世にはその作品のみならず数々の天衣無縫のエピソードも遺されている。小島が亡くなるまで内弟子として6年近くを側で過ごした、最後の弟子となる亀田均(ひとし)さんにお話をうかがった。

「何より礼儀作法や言葉遣いなどには厳しい方でしたね。私語ももちろん厳禁。6年間一緒に過ごしてきて、私が言ったのはおそらく『はい・ありがとうございます・すみません』の3語くらいではないでしょうか。弟子に手取り足取り教えることはなく、見て学べ、自分で勉強しろというスタンスの師匠でした」

早朝から深夜まで職人として働き、休みは月に2日。仕事に関しては徹底した厳しさを貫く一方で、遊ぶときは豪快だったという。
「お金に執着がなく、儲かった分は全て弟子や周りの人を巻き込んで使っていました。昭和40年頃に、私たちも飛行機に乗って京都や東京へ連れて行かれ、歌舞伎や芸者遊びを教えてもらったくらいです。豪気な人でしたね」

ヘラをほとんど使わず、親指だけで成形していったという製作スタイルやその早さ、そして何より、博多人形特有の「美人もの」「歌舞伎もの」「能もの」「童もの」「節句もの」といった数々のモチーフのうち、そのどれかではなく、どんなものでも作ることができたというのが、小島が傑出していると言われる由縁だ。

「40人もの弟子を育て、今活躍する全ての博多人形師の素地を作り上げた人。あの人を超える人は、これからもこの先も絶対に出てこないでしょうね。修行時代辛かったでしょう、とよく聞かれるのですが、一度も辛いなんて思ったことはありません。ただ、出逢えて教えを請えたことに、感謝するばかりです」

(文・上田瑞穂)

【取材協力】亀田均(ひとし)・博多人形製作工房
福岡市南区柳河内1-6-27
TEL:092-511-7849
博多人形師・小島与一(1886-1970)
▲博多人形師・小島与一
(1886-1970)
小島与一作「初袷」(福岡市博物館所蔵)
▲小島与一作「初袷」
(福岡市博物館所蔵)
妻 ひろ子と
▲妻 ひろ子と
「三人舞妓」
▲大正14年にパリ万国現代装飾美術工芸博覧会において銀賞を受賞した作品をモチーフに作られた「三人舞妓」。福博出会い橋のたもとにある