#9 1830年11月蜂起 ♪ショパン/12の練習曲より 第12番「革命」 - アクロス福岡
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歴史を彩った名曲たち

#9 1830年11月蜂起
♪ショパン/12の練習曲より 第12番「革命」

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1830年、パリで7月革命が起こった。国王シャルル10世が亡命貴族を救済すべく「10億フラン法」を制定したところ、市民の不満が爆発したのである。周辺諸国はこの革命を、旧体制をくつがえそうとする新たな火種と考え、ロシア皇帝ニコライ1世は、ポーランドの軍隊をもちいてこの革命に干渉しようとした。しかし1830年11月29日、ポーランドの人びとは国を支配していたロシアに敢然と反旗を翻し、首都ワルシャワのベルヴェデル宮殿と武器庫を襲う。駐留していたロシア軍とコンスタンティン大公は国外へ退去し、1831年2月、国民政府の樹立が宣言された。しかし国民政府に対してパスキェヴィッチ将軍ひきいるロシア軍がワルシャワに侵攻し、1831年9月7日、首都は陥落する。
この11月革命勃発前の1830年11月2日、ショパンはロシア政府発行の旅券を手にワルシャワを発ってウィーンへ向かい、同地で蜂起の報に接し、国土回復の期待に大きく心を揺さぶられる。しかし1831年9月、ドイツのシュトゥットガルトで革命の敗北とワルシャワ陥落の知らせを受けて深く絶望し、ショパンは日記にこう記した。「町の郊外地区は壊され──焼き払われた──ヤン!──ヴィルシはきっと堡塁の上で戦死したんだ──捕虜になったマルツェルが見える──ソヴィンスキ、あの善人が悪党の手中に!──おお神よ、いたか!──いるが復讐はしないのか!──これでもまだロシア人の犯罪に飽き足りないというのか……。」
《革命》が作曲されたのは1831年9月である。激しい感情が渦巻くようなこの練習曲には失われた祖国への深い絶望が反映されている。革命鎮圧の後にはロシアによる過酷な粛清が待っていた。数万人がシベリアに流刑にされ、20万人がロシア軍に兵士として徴用され、1万人が国外亡命を余儀なくされた。この時ロシア支配に抵抗して流刑となった一人に、ポーランド人のショスターコヴィチの曽祖父がいた。ショパンはロシア政府発行の旅券の更新を潔しとせず、無国籍者としてパリでその生涯を閉じることになる。

ルドルフ大公
西原稔 山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。