#34 まごじ凧工房 立石 梓(たていし あずさ) - アクロス福岡
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伝えたい文化の魅力 NEO

#34 まごじ凧工房 立石 梓(たていし あずさ)

まごじ凧工房 立石 梓(たていし あずさ)

曾祖父が明治後期に自分の遊び道具として作り始めたのが孫次凧の始まりです。日本全国に工芸品としてさまざまな凧文化は残っていますが、たとえば「江戸凧」のように地名や、「六角凧」のように形状から名づけられているものが多いなか、孫次凧は個人名がそのまま工芸品名になっているんですよ(笑)。珍しいでしょう?
商店を営んでいた曾祖父は、始めは扱う商品の一つとして凧を作り始めたようです。それがだんだん「揚がり具合が良い」と評判を呼び始め、次第に凧が主力商品となっていきました。戦後は凧一本で商いをするようになったと聞いています。
曾祖父が亡くなる前、既に「孫次凧」と呼ばれ工芸品にまで仕上げられていたにもかかわらず後継者がいないことを危惧して、私の父、つまり孫次の孫が技を継承することを決意しました。父と母は二代目として二人三脚で多くの新しい絵柄を生み出し、新しい作品を次々と作り上げていきました。孫次凧の中興の祖と言えるのはまさにこの二人でしょう。父が骨組みを作り、紙貼りをしたものに、母が絵付けを施していくのです。小さいころからそばで見ていて、面白そうだなとは思っていましたが、まさか私が跡を継ぐなんて考えてもいませんでした。
転機は今から八年前の平成二十四年。母が八月に亡くなったのです。悲しみに暮れる暇もなく、その翌月の九月から年末に向けての注文が入り始めました。ちょうど秋口から年末にかけてが、凧は一番受注が増えるのです。この伝統文化を絶えさせたくないという想いと、父一人では到底すべてをこなすのは難しいという心配もあり、自分に務まるかは不安でしたが母の役割だった絵付けを継ぐことを決意しました。昔から絵を描くことは好きでしたが、それとこれとは全く別ものでしたね。母はあんなにも簡単そうに書いていたのに、筆を持つと線一本に苦労するのです。お手本である母の作品を横に置きながら、ひたすら修行を積みました。元気なうちに習っておくべきだったと後悔しましたね。
今では父と私の二人三脚で、さまざまな作品を生み出しています。父はまだまだ元気なのですが、二人とも技を習得する際師匠がいなくて苦労したので、お互いの後継者を探しておかなくては…という危機感はあります。私の子どもはまだ下が2歳、上も小学生なので、先行きは全くわかりません。興味を持ってくれるかしら…(笑)?
令和二年二月には新しくなった小倉城で展示会やワークショップを開催しました。意外にも若い客層が多く、「インスタ映えする」と喜んでくださったんですよ。今は遊具として実際に揚げるよりも、インテリアのアクセントやお土産として購入される方が多い印象です。時代に合わせてさらに求められるものを、模索し続けたいと思います。

(文・上田瑞穂)

プロフィール 福岡県北九州市出身。平成24年9月より現職。曾祖父が作り始めた、福岡県特産工芸品に指定されている「孫次凧」を二代目である父と二人で作り続けている。